■2カ月間の「モノリシック・アイディア」
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[過去四半世紀にわたるこの産業の発展は、自分の予想を超えてエキサイティングでドラマティックなものだった] 1985年、つくば科学万博に自ら発明したICを出展するため来日したJ.Kilby氏は2mもあろうかという長躯を椅子に沈めて、私のインタビューに答えた。Kilby氏の話で面白かったのは、「モノリシック・アイデア」、すなわち1個の半導体チップのなかに複数の素子を詰め込む
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■Kilby氏へのロング・インタビュー [記事はこちらから]
J.Kilby
氏へのインタビューは、日本TIの特別の配慮で延々2時間にわたって行われ、「電子材料」の1985年5月号の誌面を飾った。以下に注目されるQ &
Aを抜萃する。
Q:ICの発想を先取りしたものに英王立レーダー研究所のダマーの構想があるが。
A:彼の構想は増幅幅や整流層を三次元的に積層し相互接続したもので、1枚の平坦な基板に・・・・・・・
■「自分は科学者ではなく技術者だ」 [記事はこちらから]
J.Kilby氏と会った最後の機会は、2000年9月29日、東京都内での記者会見だった。短いコメントがあって質疑応答に入ったので、私がはじめに「久しぶりの訪日で印象に残った出来事は何か」と問うと、氏は「成田空港で小中学生までが携帯電話を片手に話をしているのを見て、それがごく自然であることに感銘を受けた。・・・・・
■プレーナーICの卓抜な着想 [記事はこちらから]
時代の歯車が大きく動こうとする時は、見えざる手が作用するのか、人々はその方向へ向けて、いっせいに走り出すものだ。米国中南部でJ.Kilby氏がICの基本原理を発表すると、その翌年の1959年には西海岸に設立されたばかりのFairchild
Semiconductor社で今日のICの基本技術であるプレーナー技術が生み出された。・・・・・
■Kilby
vs. Noyce [記事はこちらから]
図Aはフリップフロップ回路を集積化したKilby特許で、1959年2月に出願されている。メサ型トランジスタ、バルク抵抗、拡散キャパシターなどから構成され、配線は金線のボンディングによっている。
図BはプレーナーICに関するNoyce特許で、1959年7月に出願されている。酸化膜を絶縁物として用い、蒸着金属で配線を形成している。 ・・・・・
■米誌に触発された電試グループ [記事はこちらから]
海の向こうの新成果に刺激されて日本で初めてICの試作に取り組んだのは、旧工業技術院傘下にあった電気試験所のグループである。当時、電子部トランジスタ研究室主任(後に東京農工大学教授)だった垂井康夫氏が事の重大性に着目し、研究員の伝田精一氏らと試作した。日本に米国の具体的な情報が入ってきたのは1960年初めのこと。
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■東大グループは「固態型論理回路」 [記事はこちらから]
では、日本で正真正銘のモノリシックICを初めて試作したのはどこかといえば、東大グループがNECとの共同研究で試作したチップといえそうだ。
その成果が「昭和36年電気四学会連合大会講演論文集W」に収録されている。論文名は「固態トランジスタ直結型論理回路素子」で、当時東大工学部の柳井久義、菅野卓雄、多田邦雄、柳川隆之の4氏が名を連ねている。
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■半導体ICの商用化で先行したNEC [記事はこちらから]
米国ではTI、Fairchild両社がICの商用化でも先行したが、日本メーカーで先んじたのはNECだった。
NECでは1961年に入るとICの開発に着手しているが、最初の商用化は63年発売の高周波2段増幅器「μPC1」。エピタキシャルウェハーによる素子分離、液体ソースによる不純物拡散技術などを採用して開発に成功したもので、
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■MOS型で早かった日立 [記事はこちらから]
バイポーラ型と並行してMOS型のIC化が進むが、こちらで先行した国内企業は日立製作所。同社には米RCAグループと並んでMOS型FETの開発者の一人に数えられた大野稔氏(後に日立超LSIエンジニアリング社長)が陣頭に立ってMOS型の開発に取り組み、1963年4月、10月の電気通信学会で成果を発表している。
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■「ロケット・ササキ」の電卓戦略 [記事はこちらから] <トップへ>
IC化電卓の最大の貢献者は誰かといえば、文句なくシャープ元副社長の佐々木正氏(写真A)である。
1964年に神戸工業から同社に移籍した氏は、数千個のトランジスタやダイオードが使われている電卓を見て、「これでは小型化できないしコストも下がらない。電卓を事務用から個人用にするにはIC化が欠かせない」と考えた。
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■最初のNMOSメモリーは144ビット [記事はこちらから]
磁気コアメモリーから半導体メモリーへ――こんな大胆な転換をやってのけたコンピューターメーカーが、「コンピューターの巨人」といわれたIBMだった。1960年代後半には自社製のチップ(バイポーラ型バッファメモリー)をメインフレームに試験的に組み込んでいる。そんな状況のなかで、NECは通産省工技院の大型プロジェクト「超高性能電子計算機」の一環として、
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■反響呼んだ「イレブン・オー・スリー」 [記事はこちらから]
半導体メモリーの開発が進むなかで世界的な話題をまいたのが、米Intel社が1970年に製品化した世界初の1
kビットMOS型DRAM「1103」だった。同社は68年にFairchildをスピンアウトしたR.Noyce、G.Mooreの両氏によって設立されたばかりの研究開発志向型企業だったが、最初に着手した製品がメモリーチップで、設立1年後の69年には大量生産には至らなかったものの
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■国産勢はDRAMのNMOS化で先行 [記事はこちらから]
米国の動きを敏感に察知したNECは、開発の遅れを挽回すべく翌1971年に国産初の1KビットDRAM「μPD403」を発表、さらにこれを設計変更して72年に「μPD404」(写真)を開発している。Intel製品が同じMOS型でもPMOSだったのに対し、こちらは開発面で蓄積のあるNMOSで、設計にあたった松江繁樹氏(後に取締役)は「どう控え目に見ても1103よりはるかに優れていた」と振り返っている。
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■「1Mビットの壁」で勝利した東芝 [記事はこちらから]
国産勢はDRAM市場の攻防で16Kビットまでの3世代では米国の後塵を拝したが、64K、256Kビットの2世代では圧勝の観を呈し、海外勢の前に立ちはだかった。その日本企業にとっても「1Mビットの壁」は厚かった。
先行したのは富士通。NMOS構造は従来と同じだが、キャパシターは日立考案の新構造である溝掘り型に改良を加え、 ・・・・・
■日米合作の「4004」 [記事はこちらから]
会社設立2年後にDRAM市場への本格進出を果たしたIntel社は、さらに翌1971年に世界初のマイクロプロセッサー「4004」(写真A)を発表して話題を呼んだ。
そのきっかけになったのが、日本の中堅電卓メーカー、ビジコンの開発依頼だった。同社の小島義雄社長は、電卓の開発競争が激化するなかで、「同じようにLSIを使っても、メモリー内のプログラムを入れ換えれば異なった ・・・・・
■最初の応用製品「プリンター付き電卓」 [記事はこちらから]
写真は「4004」の最初の応用製品であるビジコン製の「プリンター付き電卓」である。2005年にIntel
Museumを見学した際に撮影したもので、入り口すぐ近くのコーナーに、いささか誇らしげに展示されていた。説明文には「販売台数は10万台に上った」と記されていた。
同社製のマイクロプロセッサーは以後急ピッチで応用範囲を拡げていくが、何とも興味深いのは、当初Intel側では ・・・・・
■『わが青春の4004』出版記念会 [記事はこちらから]
マイクロコンピューターの開発者の一人、嶋正利氏は1987年8月に『マイクロコンピュータの誕生―わが青春の4004』を岩波書店から上梓されている。それを祝った出版記念会が同年12月に都内のホテルで開催された。発起人には西澤潤一、佐々木正、安福眞民の各氏ら9人が顔を並べ、私もその一人として加わっている。・・・・・
■国産初のMPUは東芝12ビット機 [記事はこちらから]
国産初のマイクロプロセッサーは東芝によって開発された。Intelの発表が1971年11月だったのに対して、東芝のそれは73年5月だから、後追いとはいっても1年半の開きでる。
「TLCS-12」と呼ばれたこの製品が一風変わっていたのは、その名称が示すように、語長が12ビットだったこと。Intelでは当時すでに8ビット製品「8008」を出し、次は16ビットかといわれているなかでの・・・・・
■NEC最後(?)のMPU [記事はこちらから]
米国優位といわれたMPU市場でも日本メーカーは着々実力をつけ、1986年当時には49%までシェアを伸ばしている。これに危機感を覚えた米Intel社は、16ビット時代の後半から日本企業のセカンドソースを富士通1社に絞り、32ビット時代になると全面的に門を閉ざす。
これに対して、この市場のトップサプライヤーのNECは・・・・・
■組み立てキットのベストセラー [記事はこちらから] <トップへ>
マイクロコンピューターの発明は必然的にパソコン時代を招来したが、その移行過程で出現したのが組み立てキット商品だった。
なかでも日本市場で絶大な人気を博したのが、NECが1976年に発売したマイコンキット「TK-80」。これはマイコンの組み立てに必要なCPU、メモリー、入出力LSIに加えて入力装置としてのキーボード、出力装置として・・・・・
■トレーニングキットもブーム化 [記事はこちらから]
同じマイコンキットに分類されるものでも、NECの「TK-80」が組み立てキットだったのに対し、写真に示す三菱電機の「MELCS8/2」はプリント基板に部品を実装済みの完成基板として発売された。この種の製品はトレーニングキットとかボードコンピューターと呼ばれ、自作派にも利用されたが、主として機器メーカー向けに販売された。・・・・・
■草の根コンピューターの衝撃 [記事はこちらから]
私自身がパソコン時代の到来を初めて予感したのは、1977年4月、米国サンフランシスコで開催の「West-Coast
Computer Fair」を見学した時だった。アマチュアやホビイストを対象にしたコンピューターショーとしては初めてとのことで、2日間の会期になんと2万人の参加者が押し寄せた。・・・・・
■PETが開いた「パソコン元年」 [記事はこちらから]
「パソコン元年」と呼ばれた1977年、米国では2つの企業からパーソナルコンピューター、略してパソコンが生まれた。
1つはCommodore Business Machine社の「PET-2001」(写真)。従来のキット製品と違って、キーボード、カセットテープ、CRTディスプレーなどが1つのコンソールに組み込まれ、それらがコンピューター本体と一体化しているのが特徴。・・・・・
■第2の黒船到来に映ったTI進出 [記事はこちらから]
1964年、米Texas
Instruments(TI)社による対日IC工場進出宣言は、日本の半導体業界にとって、まさしく泰平のねむりをさます黒船の到来に映った。当時の日本の技術状況はシリコントランジスタの生産が立ち上がっていたもののゲルマ全盛時代で、ここでTIが乗り込んでくれば「日本のIC産業は芽も出さないうちに米国の軍門に下がる」などといわれていた。
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■設立当時はレンタル工場住まい [記事はこちらから]
写真は設立間もない1970年当時のIntel社の工場風景で、案内にあたったR.Noyce社長は「シリコンバレーでは製造装置もリースで借りられるんだ」と話していた。今でこそ世界最大の半導体メーカーとして君臨しているが、当時は全従業員100人足らずの一介のベンチャー企業に過ぎなかった。
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■最初のシリコンバレー紹介記事 [記事はこちらから]
米国西海岸のサンフランシスコ湾南岸一帯(いわゆるベイ・エリア)に広がる地域を「シリコンバレー」と呼ぶようになったのは、世界の半導体産業の発祥の地で、しかもこの産業の主力企業が群れをなして集まった集積地だったからである。「バレー」の名称は、ゆるやかな起伏で広がるサンタクララ渓谷に因んだものだ。
IC生産の本格化時代に突入した1970年代初め頃からそう呼ばれるようになったが、・・・・・
■半導体工場からヒトが消えた! [記事はこちらから]
ICの生産が量産時代に入った1970年代当時、米国メーカーは労働集約的な組み立て工程をこぞってアジア地域に移した。これに対して日本メーカーの多くはワイヤボンディング工程にパターン認識技術を導入するなどして後工程の全自動化を推進、信頼性の向上とコスト低減を図った。新聞には「半導体工場からヒトが消えた!」といった文字が躍った。
当時、松下電子工業の長岡工場で ・・・・・
■イオン注入装置是非論 [記事はこちらから]
DRAMの大容量化が進むなかで、半導体工場にはイオン注入装置のような超高額機器が入るようになった。写真は1980年代前半に日立製作所の64KビットDRAM生産ラインで活躍する同装置。
日本でイオン注入装置が注目されるようになった背景には、1968年に当時の新技術開発事業団が大型開発課題に取り上げ、難波進理研主任研究員(大阪大学教授と兼任)―日立、 ・・・・・
■超LSIプロジェクトの影の演出者 [記事はこちらから]
電電公社のプロジェクトを追うような形でスタートしたのが通産省(当時)主導の「超LSI技術研究組合」である。同プロジェクトには富士通、日立製作所、三菱電機、NEC、東芝の5社が参加、これに電子技術総合研究所を加えた共同研究所が超LSIの開発に取り組んだ。1976年度から4年間に投入された資金は約700億円に達し、・・・・・
■IBMのFS構想、電電公社を走らす [記事はこちらから] <トップへ>
米IBM社がLSI採用の3.5世代機「370シリーズ」の後継機種として「フューチャーシステム(FS)」構想を練っているとの情報が伝わったのは1973年秋頃のことだ。その基幹技術となる半導体もLSIの次だからスーパーLSIかジャイアントLSIだろうということになって大騒ぎになった。
最初に反応したのが当時の電電公社で、・・・・・
■共同の実効上げた「超LSI共同研」 [記事はこちらから]
超LSIプロジェクトの実質的な推進母体になったのが「超LSI共同研究所」である。同研究所には参加企業5社と電総研から研究員が派遣され、次世代半導体技術としての超LSIの研究に取り組んだ。このプロジェクトは結果的に大成功を収め、内外から高く評価される一方で、日本政府の特定産業育成策(いわゆるターゲッティング)として・・・・・
■微細加工装置で一大成果 [記事はこちらから]
超LSI共同研究所では、開発テーマの微細加工技術の一環として露光装置のような製造装置の研究開発がすすめられたが、写真はその1つの可変寸法整形方式高速電子ビーム描画装置。同時並行的に開発された電界放射電子銃型のものと併せて、その後マスクの製作で威力を発揮した。研究所長の垂井康夫氏は旧電気試験所時代の1967年に日本電子と共同で電子ビーム露光装置を開発、 ・・・・・
■日本発技術のフラッシュメモリー [記事はこちらから]
1980年代を頂点に「メモリー大国」の名を欲しいままにした日本の「特産品」がフラッシュメモリーである。東芝ULSI研究所に在職していた舛岡冨士雄氏(後に東北大学教授)が1980年に開発に成功し、84年12月のIEDMで初めて学会発表した。「フラッシュ」という名称は、前記IEDMに論文を発表する際、「参加者から受けるネーミングはないか」と仲間と相談して着想した。・・・・・
■「米国に学ぶ」訪米視察団 [記事はこちらから]
1970年代から80年代にかけては、「アメリカに学べ」とばかり、IEEEショーやWESCON開催時に合わせて米国視察団なるものが編成・派遣された。
写真は70年代初めに編成されたチームが、MOS技術の実力企業、AMI社を訪問した時の記念写真である。・・・・・
■ジャパン・バッシングのはしり [記事はこちらから]
「シリコンバレーの日本人スパイ」――この何ともショッキングな記事を掲載したのは、米国の経済誌「フォーチュン」の1978年2月27日号だった。
同誌によれば「シリコンバレーは平常は友好的で平和な場所であるが、今や日本の商業的な攻撃によって不安と非情に満ちみちている」「日本企業はシリコンバレーに出先機関を置いて、・・・・・
■激論になった日米トップセミナー [記事はこちらから]
「フォーチュン」の記事に対して受け皿の日本電子機械工業会(当時)は抗議書簡を送るなどの対応をとったが、さらに日本側の主張を貫くべく「日米半導体セミナー」を同じ年の11月14日、シリコンバレーの一角、パロアルトで開催している。
写真は左から日本側代表の大内淳義NEC専務、赤沢璋一富士通副社長、久保俊彦日立製作所副社長。・・・・・
■的中した「日米逆転」の予言 [記事はこちらから]
米国の衰退、日本の善戦が顕在化するなかで、私は「中央公論」1980年6月号に「特別報告・日米半導体戦争」と題した一文を寄稿している。400字詰め原稿用紙80枚、誌面にして24頁に及ぶ論稿の書き出しは、「仮説・シリコンバレーが崩壊する日」というタイトルになっている。
私が米国半導体産業の行方に危機感を覚えたのは、1つには・・・・・
■「20%シェア問題」の不条理 [記事はこちらから]
加熱一途をたどる日米半導体戦争のなかでも、こじれにこじれたのが外国系半導体の日本市場でのシェア拡大問題だった。日本メーカーが米国市場で20%台のシェアを確保しているのに対し、米国メーカーは日本市場で10%程度にとどまっている。これを同じ水準の20%に引き上げろ、というのが米国側の主張。
結論だけ述べると、1991年には当時の・・・・・
■開所式にエリザベス女王 [記事はこちらから]
生産拠点の海外展開に取り組んだNECが英国スコットランドにLSI生産の拡充を目指して「NECセミコンダクターズ(UK)」を開設したのは1983年のことだ。開所式にエリザベス女王が参列されたこともあって新聞やテレビを賑わせた。
その際に女王陛下を同社副社長として迎えた大内淳義氏に後日聞いた話
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■文革下の中国半導体産業 [記事はこちらから] <トップへ>
中国には文化大革命以前の1965年に初めて訪問以来、20回ほど足を運んだが、写真にあるのは1980年当時訪問した上海の半導体工場。主力製品のトランジスタの組み立てを国産機で対応していた。
中国の半導体産業は文革中に「電子大会戦」と名づけられた大衆運動として急進的に展開されたが、必ずしも実効をあげなかった。70年代に訪ねた北京市西城区半導体デバイス工場も・・・・・
■人材供給源としてのイスラエル [記事はこちらから]
長いジャーナリスト生活を送るなかで、さまざまな国の実にたくさんの工場を見る機会に恵まれたが、イスラエルもそんな国の1つ。米国系半導体製造装置大手の開発センターがオープンしたのを機会に招かれたもので、そのつてで同国の半導体メーカーをいくつか訪問した。
写真にあるのは、Intelのエルサレム工場で、・・・・・
■日米の専門家、沖縄料理店に集う [記事はこちらから]
日本企業にとって日米半導体摩擦の正面の敵ともいうべきRobert
Noyce氏も、日本市場への売り込みでは相好を崩して対応し、技術の話になると時間の制約そっちのけで語り尽くした。 写真は1971年に来日した際、日本側の半導体専門家との懇談会に出席したNoyce氏。前列中央が同氏で左2人目が垂井康雄氏
、後列は左から西澤潤一、菅野卓雄、伝田精一の各氏と志村。・・・・・
■「バレーを創った男」逝く [記事はこちらから]
「シリコンバレーを創った男」と称され「半導体産業が生んだ不世出の技術者」と敬愛の念で受け止められたRobert
Noyce氏は1990年6月3日、突然不帰の客となった。 日本に後れをとる米国半導体産業の再生を目指す官民合同会社「セマテック」のCEOとしてテキサス州オースチンに滞在中、心臓発作で急逝したものだ。察するにIntel副会長を兼務しながらの激務に、心労が重なったのだろう。・・・・・
■ハイブリッドのチャンピオン [記事はこちらから]
ハイブリッドICとして一世を風靡したのが米IBM社の「SLT(
Solid Logic Technology)」。複数のセラミッツク基板上に厚膜技術とチップ部品を用いて回路を形成し、三次元的に積み上げた基板間を相互接続したものだ。同社の第3世代計算機「360シリーズ」の論理回路素子として用いられて話題になった。これに対して日本では民生電子機器用や自動車用が主流。なかでも東京三洋電機の大出力厚膜IC ・・・・・
第U部 おわり
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