| 半導体産業人協会||日本半導体歴史館||志村資料室||第U部||第V部日本半導体歴史館検索ページ


BBSトリオ揃い踏みのパネル討論会 [記事はこちらから]

トランジスタ発明25周年記念パネル討論会に出席したBell電話研究所の「BBSトリオ」。左からリーダー格で才気煥発のW. Shockley、理論家でいちばん年下のJ. Bardeen、実験屋で最年長のW. Brattainの各氏。1973年3月、IEEE主催でニューヨーク市内の・・・・

金メダル vs. 銅メダル [記事はこちらから]
トランジスタ発明25周年記念パネル討論会の開会に先立ってIEEEが3人の発明者に贈った記念メダルのレプリカ。実物は金メダルだったが、プレス関係者として参加した私に手渡されたのは、同じ鋳型で打ち抜かれたとはいえ銅メダル。添えられた説明書には諧謔を込めて「トランジスタを発明しなかった諸君へ」と書き込まれている。・・・・・

「ヒナよ、殻を破って出て来い」 [記事はこちらから]
名実ともに「科学技術大国」の米国では、しばしば「発明○○周年」の記念行事が行われる。お祭り騒ぎが大好きの国民性を反映してか、それを国民的行事にしていく演出力が卓抜。トランジスタ発明25周年の場合もそれは同じで、・・・・

大発明に冷淡だった新聞報道 [記事はこちらから]
トランジスタの出現は、今でこそ「戦後最大の技術革新」、いや「20世紀最大の発明」などと評価されているが、発明当時のジャーナリズムの反応は、きわめて冷淡だった。米国を代表する「ニューヨーク・タイムズ」紙は、公式発表翌日の1948年7月1日付で・・・・

トランジスタ情報はGHQより [記事はこちらから]
「光は東方より」になぞらえていえば、「トランジスタ情報はGHQより」といえようか。というのも、1948年6月30日にベル電話研究所からトランジスタ発明の正式発表がなされるや、その情報は7月中旬に早くもGHQ(連合軍総司令部)を通して日本側の関係者に伝えられていたのである。・・・・

賑わった「群盲触象」の研究会 [記事はこちらから]
米国発のトランジスタ情報が伝わると、日本国内にはいくつかの勉強会や研究会が立ち上がる。何か大変なものが発明されたらしいということは感じ取ったものの、肝心の中身の方がさっぱりわからない。そこで仲間が集まって、詳しい情報を分析したり、・・・・

苦肉の策のゲルマニウム輸入 [記事はこちらから]
トランジスタの技術情報はGHQなどを経由して入って来たものの、いざ試作に着手しようとすると、材料のゲルマニウムがない。何しろ、日本で研究がスタートした当時、ゲルマニウムの実物を見た人は皆無に近かったというから無理のない話である。・・・・

「半導体」に着目した日本の先覚者たち [記事はこちらから]
日本における半導体研究は、第2次大戦直後、ベル電話研究所におけるトランジスタ発明の成果を受けて本格化する。しかし、日本の学会誌に「半導体」という術語が登場するのは大正時代のこと。なかでも論文名にずばり半導体を使ったのが岡部金治郎の「半導体の電導度測定上に現はれる金属板の影響」で、「電気学会雑誌」の1925(大正14)年6月号・・・・

米国製Ge検波器が変じて・・・・・・ [記事はこちらから]
日本で最初にトランジスタの試作に成功したのは、電気通信省傘下の電気通信研究所だった。同所は1948年夏、電気試験所から通信部門が分離、独立独歩の道を歩み始めたばかりだった。49年秋頃になると、早くもトランジスタ研究の・・・・

「オール国産」にこだわった単結晶づくり [記事はこちらから] <トップへ
電気通信研究所のグループは国産第1号のトランジスタ試作に成功したものの、もうひとつ気が晴れない。使ったゲルマニウムが「国産」でなかったからだ。「次は全部国産でやろう」が合言葉になって高純度ゲルマニウムの単結晶づくりが始まった。 ・・・・

日本初のトランジスタ応用製品 [記事はこちらから]
日本で最初のトランジスタ応用製品が何かは必ずしも明確ではないが、私見では電気通信研究所が試作したトランジスタラジオと電蓄が嚆矢をなすものと考えている。試作トランジスタがそれなりに作られるようになり、特性的にも一定の水準のものができるようになると、当然の・・・・

Bardeen博士の通研訪問 [記事はこちらから]
日本で最初のトランジスタ応用製品が何かは必ずしも明確ではないが、私見では電気通信研究所が試作したトランジスタラジオと電蓄が嚆矢をなすものと考えている。試作トランジスタがそれなりに作られるようになり、特性的にも一定の水準のものができるようになると、当然の成り行きとして「応用」が ・・・・

「謎多き人物」Polkinghorn [記事はこちらから]
GHQの名の下にトランジスタ情報を日本の関係者に手渡した人物、Frank A. Polkinghorn氏については謎に包まれた部分が多い。セカンドネームが “Porkinghorn” と誤記されているものもあれば、その読み方が「ポルキングホーン」(一般的にはポーキングホーン)になっているものも るといった具合。・・・・

トランジスタ紹介記事の「第1報」 [記事はこちらから]
トランジスタ発明のニュースを最初に報じた商業誌は、私の知るところ、ベル電話研究所の公式発表翌月に発表された米週刊誌「タイム」の1948年7月12日号ではなかろうか。
前出の一宮虎雄氏によれば、氏は毎週、通勤の途上、東京駅で同誌を購入していたが、「たまたま同誌の科学欄を見ていると『小さな脳細胞 (Little Brain Cell)』と題した記事が目に留まった。・・・・

Shockley博士、NHKに出演 [記事はこちらから]
ベル電話研究所におけるトランジスタ発明の中心人物、William Shockley氏は1963年、電気学会の招きで来日、NHKでかねてから親交のあった菊池誠氏と45分間の対談番組に出演している。写真は本番に先立ってスタジオ内で台本の打ち合わせをしているところ。・・・・

トランジスタ生産一番乗りの神戸工業 [記事はこちらから]
日本企業で最初にトランジスタを生産し外販した会社はどこかといえば神戸工業(後に富士通に吸収合併)である。同社は1954年1月、東京・上野の精養軒でレセプションを開き、自社製の点接触型トランジスタとそれを使用したトランジスタラジオの試作品を公開、その直後の2月にトランジスタの発売に踏み切っている。・・・・

民生応用にこだわったソニー [記事はこちらから]
神戸工業に負けず劣らずの早期参入を果たしたのが、戦後ベンチャーのハシリといわれる東京通信工業(現ソニー)。同社は社長の井深大氏が戦時中に軍事開発の技術開発に関わったいきさつもあって、トランジスタの民生用途、それもラジオへの応用にこだわった。・・・・

天皇陛下に献上された第1号製品 [記事はこちらから]
写真Aはソニーが1955年に発売した国産初のトランジスタラジオ「TR55型」の内部構造。「天皇陛下への献上品」の説明が示すように同社製作の第1号製品で、開発陣の自信と矜持が表出しているように見える。・・・・

「世界初」にならなかったトランジスタラジオ [記事はこちらから]
ソニーが念願のトランジスタラジオ「TR-55型」を発売したのは、1955年8月のことである。接合型による5石スーパーヘテロダイン方式で、価格は1万8,900円だった。高周波特性を良くするため、歩留まりの悪い成長(グロン)型をあえて採用しているのがソニーらしい。しかし発売に到る経緯は山あり谷ありで、座してこの新製品の誕生を見たわけではない。・・・・

NECはマイクロ波ダイオードで先鞭 [記事はこちらから] <トップへ
神戸工業、ソニーの先行2社を追うようにして他のメーカーもトランジスタを中核とした半導体の開発・生産に乗り出している。なかでもNECは長船広衛氏が1949年9月にいち早くトランジスタの研究に着手している。折しも同社は、財閥解体の指定を受けて・・・・

中堅企業が相次いで参入 [記事はこちらから]
先行2社が参入を果たした1954年頃になると、日本の電機各社は多かれ少なかれ半導体の研究開発に着手、いくつかの企業はサンプルの供給を行っている。
写真は日本無線が開発したゲルマニウムトランジスタやダイオードで、・・・・

日立武蔵の原点は「かまぼこ兵舎」 [記事はこちらから]
「日立武蔵」といえば女子バレーボールの覇者として世界にその名を轟かせたが、本来の半導体事業にしても世界1、2位を争う実力企業だったのである。
 もちろん、ローマは一日にして成らず、である。同社の半導体部門立ち上げを研究サイドからサポートした・・・・

その名は「テアトル東芝」 [記事はこちらから]
対する東芝のトランジスタづくりは東京の下町から始まった。犬塚英夫氏(後に総合研究所次長)らが東京・深川の砂町工場を拠点にしながらゲルマニウム単結晶の引き上げやデバイスの試作に取り組んだからだ。この工場はかつての砂糖工場を改造したもので、・・・・

主役は「トランジスタ・ガール」 [記事はこちらから]
韓国の文明評論家、李御寧(イ・オリョン)氏は、日本人の小さなものを愛でる文化を「トランジスタ文化」と呼んだが、そのトランジスタづくりを下支えしたのは俗に「トランジスタ・ガール」と呼ばれる若年の女子作業者だった。・・・・

「メサ型」が拓いたトランジスタ本格時代 [記事はこちらから]
拡散技術で最初に製造されたデバイスはメサ型トランジスタだった。西部劇に出てくる台形の丘をメサと呼ぶように、チップの断面が頂面の平らな台地のような形をしていることから、こう命名さとれた。このトランジスタはゲルマニウムの場合で500MHzと高周波特性に優れ、国産のラジオ、テレビの高性能化に寄与した。・・・・

写真引き伸ばし機転用の測定器 [記事はこちらから]
日本の半導体開発は、材料もなければ装置もない、文字通りの「ないないづくし」から始まった。
米Western Electric社と技術導入契約をしたものの、相手から手渡された技術資料は「トランジスタ・テクノロジー」全3巻だけで、そこに載っている図面や写真を参考にしながら、何とか必要な装置を完成させた。・・・・

磯子キャンプに駐留していたHolonyak [記事はこちらから]
第2次大戦後間もなくスタートした日本の半導体研究開発には、しばしば戦後ならではの“特異”現象が顔をのぞかせる。1962年、米General Electric社の研究所で世界初の発光ダイオード(LED)を開発したNick Holonyak氏が、その数年前の56年当時、兵役で横浜の磯子キャンプに駐留していたという話もその例外ではない。・・・・

「半導体化」電卓のハシリ [記事はこちらから]
日本の半導体市場を下支えした応用製品に電卓がある。1965年にたった4,300台ばかりだった電卓生産は、史上最高を記録した80年には6,000万台に上り、メーカー数も50社前後に達している。トランジスタ時代からIC、LSI時代を通じて、電卓需要がわが国半導体産業の成長のバネになってきたことは間違いない。・・・・

エピ技術採用でマイクロTV誕生 [記事はこちらから]
ゲルマニウムからシリコンへの転換が急速に進んだ背景には、「エピタキシャル」と「プレーナー」という2つのプロセス技術が牽引車的な役割を果たした。いずれもシリコン時代黎明期の1960年に米国で開発された。このうちエピタキシャル技術は、「・・・・の上に(エピ)」と  ・・・・

シリコンでもメサ型健闘 [記事はこちらから] <トップへ
1960年代に入ると、日本の主力半導体各社はシリコン化を急ぐが、NECが最初のシリコンメサ型トランジスタの開発に成功したのは60年2月23日のこと。ゲルマニウムのメサ型の試作第1号ができたのはその4日前の19日だから双方の開発が並行して進められたことがわかる。  ・・・・

プレーナー特許、NECが国内実施権 [記事はこちらから]
1957年に設立された米Fairchild Semiconductorでは、Jean Hoerniという人物が「3層のケーキの上に糖衣をかけるような仕事」(T. R. Reid『チップに組み込め!』)をやっていた。トランジスタ構造の最終的な姿と考えられていたメサ型はシリコン時代にも引き継がれ、生産量を増やしていたが、表面の汚染に弱いのが難点だった。  ・・・・

LTPトランジスタでNECに対抗した日立 [記事はこちらから]
NECによるプレーナー特許の国内専用実施権の獲得は、同社の長船広衛氏が「同業他社の恨みを買うことになった」(西澤・大内共編『日本の半導体開発』)と告白しているように、さまざまな波紋を生む結果になった。なかでも日立製作所はその急先鋒で、  ・・・・

シリコン産業の生みの親「ワンパクさん」 [記事はこちらから]
日本の半導体シリコン産業が今日なお質、量の両面で世界市場の最前列にあることは誰しも認めるところである。その草創期の最大の貢献者が新日本窒素肥料(後のチッソ電子化学)にあって工業化のパイオニア的役割を果たした前田一博氏である。  ・・・・

「独創開発の拠点」半導体研究所 [記事はこちらから]
「東北大学に渡辺、西澤あり」といわれるように、渡辺寧、西澤潤一両教授は師弟関係の強い絆で結ばれながら、日本の半導体研究開発史に大きな足跡を残した。1961年に財団法人として設立された「半導体研究振興会」はその記念碑的な研究機関で、開設以来、内外に存在感を示してきた。  ・・・・

渡辺教授のユニフォーム姿 [記事はこちらから]
珍しい写真といえば、この写真ほど珍しいものはないかもしれない。かの生まじめで厳格な渡辺寧教授が野球のユニフォーム姿になって胸には「TRANSISTORS」なるチーム名が謳われているではないか。  ・・・・

 第T部 おわり

| 頁トップに戻る |