戦後の復興から日本の経済成長は目覚ましく、一人当たりGDPでは$2,000(1950年)、 $4,000(1960年)、$10,000(1970年)に達した。しかし、他国からの反応は、驚きと非難が入り混じった複雑なものだった。
最初はアナログICで車内エンタメ用、次いでワイパー、電子ロック、ダッシュボード等で4ビットマイコンと他のデジタルIC、最後に8ビット以上のマイコンでのエンジン制御と進んだ。
供給メーカでは1位はTI社、2位がMotorola社、3位がFairchild社で、日本メーカはいない。市場全体では日本メーカの得意とする民生比率は依然低かった。米国のシェア48%、日本シェア25%、欧州 26%、他1%。
Intel社は電子計算機用で日本のビジコン社と共同で4ビットMPU i4004を開発。さらに1974年には8ビットNMOS MPU i8080を出荷。Zilog社 Z80、Motorola社 M6800も登場し、MPUの基本機能が整ってきた。 日本メーカも70年代の中頃よりMPU開発が進展。家電用では4ビットを主流として圧倒的なシェアを取り始めた。
日本半導体メーカはCMOS LSIを大生産しており、1974年になると各社の生産規模は1~2百万個/月に到達した。また、ローパワーCMOS LSIは多くの民生用機器の進展も後押しするとともに、それ自身も世界No.1の地位を不動のものとした。
世界の半導体市場は初期の1957年で1億ドル、1964年で10億ドル、1979年で100億ドルと22年で100倍となったが、1975年で二桁のマイナス成長となった。シリコンサイクルの初めての下降線であった。
1970年初頭、日本の電気メーカはデジタルICで米国半導体メーカより積極的な技術導入、提携、そして製品輸入を進めていたが、1970年代中ごろより日本の半導体への切り替えが始まり米国輸入品が激減した。政府は米国の圧力を受け、1974年ICの輸入完全自由化に踏み切った。
1976年日本ビクターはVHS VTR発売。標準化をめぐっての戦いが日本メーカ同士で始まった。A/V用アナログICの重要な応用分野であった。
5年内に最先端製造プロセスの開発、微細化露光装置の開発、1μmプロセス、メモリで1M DRAMの試作を達成目標とし、1100億円の投資で工業技術院電子技術総合研究所のもと、富士通、日立、NEC、三菱、東芝の各社が参加してスタートした。
日本半導体メーカは1970年代で発展してきたICの試作技術を量産でも最高の品質で達成するため、強く生産自動化を進めた。後工程は特にボンダ工程の自動化を進めた。もともと前工程は、設備、装置に大きく依存していたが、後工程では手作業が多く人手不足の顕在化、要求される作業の高度化、複雑化等により作業者ごとの品質のバラツキ、作業スピードの上昇等に限界が出ていた。
日本の超LSIプロジェクトに関する報告書を米国政府に提出、さらに米国内のIC開発加速のため、SRC(Semiconductor Research Corporation ) の旗の下、産学連携の強化を提唱した。
このMPUはMicrosoft社のMS-DOSと共に、IBMオープンアーキテクチャPCのスタートとなった。多くのIBM互換機が生まれWintelのデファクト・スタンダードの始まりとなった。
ここは高位マイコン市場だが、米国のIntel、Zilog、Motorolaが世界的に主流となった。米国メーカのシェアが高く、日本メーカ各社は独自開発製品及び米国製品の代替え品で追いかけた。