|
|||||||||||||||||||||||||||
集積回路 |
|||||||||||||||||||||||||||
1950年代 IC時代の曙 1940年代末に米国で発明されたトランジスタが日本でも量産開始され、高周波特性や信頼性の向上が大きく進んだ。一方、米国では1959年にICに関する2つの基本発明がなされ、IC時代の幕が開いた。
TIのJack Kilbyが半導体ICを発明した。これは、半導体基板に抵抗やトランジスタなど複数の回路素子を形成して電子回路を構成するもので、
ICの基本特許となった。
FairchildのRobert N. Noyce がプレーナICを発明した。Siウェハ上に複数のトランジスタ・抵抗・コンデンサを形成し、不純物拡散によって形成された
二酸化シリコン膜を残したあとにアルミニウム膜(導体)による回路形成を行うというもので、Kilby特許とともにICの基本特許となった。
↑TOPへ 1960年代 ICの時代 日本では1960年初めにICの実用化に向けた試作が始まったが、後半になるとラジオ用ICや電卓用ICなどの実際の製品が量産されるようになった。 ラジオ用はバイポーラIC、電卓用はMOSICである。TTLの登場や電卓用MOSICの発展は、このあと長期にわたり継続的に進むデジタル化のスタートとなる 出来事であった。
1960年代になると日本でも電気試験所の垂井などによる試作をはじめとして、各社でICの実用化に向けた試みが始まったが、
特に三菱電機のモレクトロンが有名である。これはWestinghouseのサンプルを参考にして試作、量産したものである。
NoyceがプレーナICを発明したフェアチャイルドは、RTL(Resistor Transistor Logic)μL900ファミリーを開発した。代表的な製品であるμL914は、
抵抗とトランジスタで構成された2入力NORを2つ搭載したICであった。RTLはMotorolaなどのメーカからも発売された。RTLはアポロ計画のコンピュータに使用された。
RTLの次に、高速でレイアウト面積の小さいDTL(Diode Transistor Logic)が開発された。1962年にSignetics がDTLを発売し、1963年にはFairchildやWestinghouseが続き、
Ferranti (英国)も同時期にDTLを製品化した。また、IBMはDTLで論理を組んだコンピュータ1401を開発した。RTLやDTLはこのあと現れたTTLに置き換えられていった。
超高速論理素子であるECL(Emitter Coupled Logic)回路は1956年、IBMのHannon S.Yourkeが発明した。このときはまだICではなかった。ECL回路は当時のスーパーコンピュータ
ともいえるIBM 7030 Stretchに使用された。1962年、MotorolaはECL論理のICであるMECL Iを発売した。
TTL(Transistor Transistor Logic)は1961年にTRWのJames L. Buieによって発明された。そのあと1963年にSylvaniaが製品を市販するなど各社から製品が販売されたが、
TIの「5400/7400シリーズ」がデファクト・スタンダードとなり、多くの派生品を生んだ。
当初の電卓はトランジスタを用いていたが、1960年代半ばにMOS-ICに移行し、電卓により最初の本格的なMOS-ICの需要がもたらされた。初期には1台の電卓に数十個のICが使用されていたが、
急速に集積化が進んでやがて数個になり、1970年代初めにはワンチップになった。
Intelの創設者の一人であるGordon E. Moore(当時はFairchild社勤務)が、Electronics Magazine 誌1965年4月19日号に『半導体素子に集積されるトランジスタ数が1965年まで、
1年に2倍の割合で増加した事実から、1975年には65,000個の素子が集積されるだろう』という予測を発表した。その後、増加の係数は18ヶ月~24ヶ月に2倍と変化したが、
チップに集積されるトランジスタ数が一定の期間で倍増するというムーアの法則は、以後40年にわたり半導体の技術開発や経営の基本指針となった。
1968年、RCAがCMOS汎用ロジックIC 4000シリーズを発売した。CMOS汎用ロジックは、TTLより低速だったが、消費電力が小さく動作電源範囲が広かった。当初、TTLと互換性がなかったが、
TIのTTL 7400シリーズと互換の製品が登場して普及した。
早川電機(現シャープ)が1969年に開発したLSI化電卓マイクロコンペツトQT-8Dには、North American Rockwell社のLSIが使用された。
当時の最新技術を使用したLSI 4個で構成されたQT-8Dは10万円を切る価格で販売され、市場を席巻した。これを契機に日本メーカは電卓用ICのLSI化に積極的に取り組んだ。
ICの発達とともに民生機器への半導体の応用は広がっていった。高周波特性の改善、大出力化が進み、応用機器ごとに機能を最適化したICが開発されていった。
半導体メモリはバイポーラSRAMから始まったが、やや遅れてMOS-SRAMの開発が進んだ。NECは1968年に144ビットのNMOS SRAMを開発し、それを電電公社向けの
大型コンピュータに搭載した。一方、DRAMに関しては、IBMのRobert H. Dennardが1トランジスタのメモリセルを発明し、1968年に特許を出願した。
1968年に設立されたIntelは3トランジスタからなるセルを用いたDRAMの構想を練り、実現を目指した。一方、DRAMに関しては、IBMのRobert H. Dennardが
1トランジスタのメモリセルを発明し、1968年に特許を出願した。1968年に設立されたIntelは3トランジスタからなるセルを用いたDRAMの構想を練り、実現を目指した。
↑TOPへ 1970年代 LSIの時代 DRAMやSRAMなどのメモリとマイコンが急速に発展した。これらのLSIは産業用LSIと呼ばれたが、先行する米国を日本が追いかける展開だった。 また、ワンチップ化された電卓用LSIや時計用LSIなど民生用LSIも大きく発展した。電卓用LSI、時計用LSI が牽引したCMOS技術がSRAMにも広がっていった。
Intelのあとを追い、日本メーカもDRAM市場に参入した。1971年にNECが1KビットDRAMを開発したが、この製品では高速性が重視されてNMOSが採用された。
DRAMの集積度は1Kビット、4Kビット、16Kビットと急速に向上して行った。1976年には超エル・エス・アイ技術研究組合が発足して基礎技術を含めた開発が
精力的に進められ、その成果は日本メーカのDRAM開発に大きく貢献した。
1970年代、Intelに続いて、NEC、東芝、日立など国内半導体各社が4ビットマイコン、8ビットマイコン、さらには16ビットマイコンを開発、量産化していった。
マイコンは当初産業用といわれたが、オフィス機器、家電機器、端末機器、自動車、産業機器などへと用途が広がっていった。
1969年Intelは256ビットのPMOS SRAMである1101を発売した。Intelは続いて1KビットNMOS SRAMと1KビットCMOS SRAMも発売した。この結果、SRAMの開発・商品化でも
日本メーカはIntelを追いかける展開となった。当初、高速SRAMはNMOS、低消費電力(低速)SRAMはCMOSという2つの系統で発展したが、やがて高速SRAMもCMOSとなった。
大型計算機での回路シミュレーション以外にも徐々にCAD (Computer Aided Design)ツールが使用されるようになった。半導体レイアウト設計情報をデジタイズするための
米国Calma社やApplicon社のCADツールや回路図入力用ツールが最初に広がった。
1970年にIntelが世界初の1KビットDRAM 1103を発売した。1103は3トランジスタ型メモリセルを用いたPMOSのDRAMだった。DRAMはそれまでのコンピュータメモリの主力だった
コアメモリを急速に置き換えていった。
1971年:2KビットEP-ROMの開発(米国Intel)
1971年Intelが不揮発性メモリである2KビットEPROM(Erasable Programmable
Read Only Memory)を開発した。電気的にプログラム可能であり、消去もできる画期的な製品 であった。消去は紫外線を用いたので、UV-EPROM(Ultra
Violet EPROM)とも呼ばれた。 (1980年代:不揮発性メモリの進展を参照)
1971年、Intelは世界初のマイコンである4004を発表した。同製品は4ビットのマイコンで、トランジスタ2,300個を集積し、クロック周波数108KHzで動作した。同製品は日本の
電卓メーカであるビジコン社がIntelに電卓チップの開発を依頼したことから生まれたものである。
1972年、世界初のCMOS LSI搭載のLED表示電卓エルシーミニが発売された。続いて1973年、世界初の液晶表示電卓エルシーメイトEL-805が発売された。これはシャープと東芝の
共同開発により東芝がCMOS LSIを生産し、シャープが商品化したものである。民生用CMOS LSIの時代を先駆ける製品であった。
1970年初めころはまだICの回路規模が小さくコンピュータも発達していなかったので、電卓や手計算で回路が設計されていたが、徐々にコンピュータを使用した設計が進み始めていた。
1973年UC, Berkeleyが回路シミュレータであるSPICE(Simulation Program with Integrated Circuit Emphasis)を開発し、大型計算機による回路シミュレーションが本格化した。
1971年、東芝はFord社のEEC(Electronic Engine Control)プロジェクトに参画し、1973年に世界初の12ビットマイコンを開発した。マイクロプロセッサとしては初めてマイクロプログラム
制御方式を採用し、CPUチップは約2800ゲートでそのチップサイズは5.5mm x 5.9mmであった。
1974年: MOSFETの比例縮小則発表(R. Dennard 米国 IBM)
MOSFETの微細化において、デバイス寸法に留まらず、関連するパラメータ(不純物濃度、電源電圧など)を同時に縮小した場合の性能予測を示し、微細化におけるガイドラインとなった。
セイコーは1969年12月、世界初の水晶発振式腕時計SEIKOクオーツアストロン・35SQ(ハイブリッドIC搭載)を発売した。時を同じくして諏訪精工舎(現セイコーエプソン)では、
自社製CMOS ICの開発が始まった。そして1971年に1.5Vという低電圧で動作するCMOS IC (R-38A)の開発に成功し、同年SEIKOアナログクオーツ38SQWで実用化・搭載された。
この低電圧動作を可能としたCMOS ICの開発・実用化は当時の日本の半導体業界にあっては画期的なものであった。時計用のCMOS ICの需要は電卓とともに1970年代の日本の半導体産業を牽引した。
1970年代後半は、マイコンCPUが4ビット~8ビットに移行し、多くの周辺LSIが品揃えされた時期であった。中でも日立のCRTコントローラ(CRTC)は、その後のパソコンをはじめとするCRT表示装置向けの標準部品として、多くのマイコン応用システムで長期にわたって使用された。
日立が1978年のISSCC(International Solid-State Circuits Conference)で発表した4Kビット高速SRAMは、二重ウエルCMOS構造を採用し、NMOSと同等のスピードを達成した。
この製品によって高速性が要求される分野でもCMOSで対応できることがわかり、その後のDRAMやマイコンのCMOS化のきっかけとなった。
1979年、NECは、世界標準のフロッピィディスクフォーマットに対応できるコントローラを開発した。このコントローラはIBMから発売されたパーソナルコンピュータ(PC)に搭載され、
フロッピィディスクコントローラのデファクトスタンダートとしてPCのみならず広く情報機器に採用された。
↑TOPへ 1980年代 大規模LSIの時代 1980年代に入り、日本はメモリの大容量化で米国を凌ぐようになった。さらに民生用LSIで培ったCMOS技術がメモリやマイコンに展開され、CMOS化の面でも日本は米国を凌ぐようになった。 パソコン、ワープロ、ビデオゲーム、ファクシミリなど新しい半導体応用機器が続々と登場し、それに対応した新しい機能のLSIが生まれた。
1980年代になると日本メーカはDRAMの大容量化競争で優位に立った。また日本メーカは品質面でも米国を凌駕して全盛期を迎えた。大容量化のため1Mビット製品から
メモリセルにトレンチ方式やスタック方式という三次元構造が導入された。CMOS化も進み、256KビットDRAMの第2世代でCMOS製品が出現し、1Mビットからは量産品はすべてCMOSとなった。
1980年代はSRAMも16Kビット、64Kビット、256Kビット、1Mビットと大容量化が進んだ。しかし、低電力の小型電子機器市場にCMOS化されたDRAMが参入したこと、およびパソコンの普及のため
専用機器が減少したことにより用途が限定されるようになった。
1970年代のEPROMは、大容量化を進めるIntelとTIを日本メーカが追いかける展開であったが、1980年代になると日本メーカが大容量化で追いついた。EPROMもDRAMとほぼ同時期にCMOS化されたが、
CMOS化では日本が先行した。また、ビットコストの安いマスクROMも普及が進み、大容量化が進んだ。
LSIのシステム規模が拡大するにつれてCAD(Computer Aided Design)ツールの重要性が増し、半導体各社内製の大型計算機ベースのCADツールが発展した。やがて商業用
EDA(Electronic Design Automation)ツールの発達と普及に伴い、稼働プラットフォームが大型計算機からEWSへ移行した。
ゲートアレイ方式とスタンダードセル方式(セルベースIC)というASICの登場とその回路規模の増大に伴って配線設計の自動化が必須となり、国内各社で内製された自動
配置配線ツールや米国EDAベンダから発売されたツールが活用された。やがてEDAベンダの自動レイアウトツールが発展し、EDA業界が形成されていった。
1970年代は汎用指向のメモリ・マイコンの時代だったが、1980年代にはいる入るとカスタム指向のゲートアレイとスタンダードセル方式のASICが発展した。ビルディングブロック方式の
スタンダードセル(セルベースIC)はのちのSOCに発展する技術である。ゲートアレイでは先端プロセスの強みを生かして日本メーカが優位に立った。
1980年代はCRTへの2次元グラフィックス表示が一般化した時代である。1981年、NECはグラフィックス機構を内蔵するLSI(GDC)を発表した。1984年、日立は表示系CRTコントローラの後継となるアドバンストCRTコントローラ(ACRTC)を発表した。その後も各社から類似のコントローラの発表が続き、カラーグラフィックス表示市場が大きく拡大した。
1980年、NECは世界に先駆けて信号処理に必要なほとんどの機能を集積したデジタル信号処理プロセッサ(μPD7720)を開発した。このプロセッサは16ビットのパラレル乗算器を内蔵し、
モデム、音声圧縮、音声認識、画像処理、など幅広い信号処理機器に採用された。
1981年、日立は業界標準の一つであったMotorolaの8ビットマイコン6801とソフトウェア互換性を持ったCMOSマイコンHD6301を開発した。このCMOSマイコンはソフトウエアの
互換性を維持しながらハードウエア面では最新の半導体技術を駆使して性能面で優位に立とうという製品で、ソフトウエア互換、ハードウエア差別化という事業戦略のひとつであった。
1983年、NECは当時16bitマイコンとしてデファクトスタンダードであったIntel社のi8086の上位互換性を待ち、CMOSプロセス技術で実装した16bitマイコンV30を開発した。
このマイコンはパーソナルコンピュータ、ワードプロセッサ、ファックス、プリンタなどのOA(Office Automation)機器、交換機や産業制御機器などに幅広く採用された。
1984年、NECは従来のコンピュータと全く異なるアーキテクチャである可変長パイプライン方式を採用したデータ駆動プロセッサImPP(Image Pipelined Processor:μPD7281)
を世界に先駆けて開発し、当時のデジタル画像処理市場立ち上がりに大きな貢献を果たした。
1984年に日立はそれまでのマスクROMの代わりにEPROMを内蔵したシングルチップマイコンを開発し製品化した。EPROM内蔵マイコンは品質確保が難しかったが、顧客の量産での
要求を満たす品質を確保したうえでの製品化であった。これによって、それまで半導体メーカによって製造工程途中で実施する必要のあったソフトウエアの書き込みが顧客の手元で可能となり、
顧客のソフトウエア開発から量産までに要する時間が飛躍的に短縮された。
1984年12月のIEDMで、東芝の舛岡はフラッシュメモリを発表した。3層多結晶シリコン技術を用いて、1トランジスタでセルを構成し、電気的に一括消去する方式を採用した。
IntelのFLOTOX型EEPROMに比較して大容量・安価であったため、その後の不揮発性メモリの本命となった。フラッシュメモリはNOR/NANDに分かれて発展していった。
配線層でプログラムするゲートアレイは、ウェーハ工程からカスタム製品扱いしなければならないという弱点があった。1985年、フィールドで(即ち出荷後にユーザ側で)プログラム可能な
FPGA(Field Programmable Gate Array)がXilinxから発売された。任意の論理回路を構成可能な論理ブロックを格子状に配置し、その間の配線をプログラマブルに結線できるようにしたデバイスである。
EPROM内蔵マイコンを開発した日立は、続いてICカード用にEEPROM内蔵マイコンを開発した。ICカード用では紫外線を使うEPROMは使用できず、データをバイト単位に書きかえる必要があるため
EEPROMを内蔵したものである。このEEPROMはMNOS型(Metal Nitride Oxide Silicon)だった。
デジタル回路を記述するのに、Verilog、VHDLのHDL(Hardware Description Language:ハードウェア記述言語)が登場し、1986年Synopsysが論理合成ツールDesign Compilerを発表するに至り、
ロジックLSIの設計手法は大きく変わっていった。
1984年、東京大学坂村健がTRON(The Real-Time Operation systems Nucleus)アーキテクチャを提唱、このコンセプトに沿って産学協力のTRONプロジェクトがスタートした。このプロジェクトの中で
TRONアーキテクチャに準拠したCISC型32ビットマイクロプロセッサのGmicroシリーズが、1988年の日立を皮切りに、富士通、三菱など各社で開発された。
1980年代に日本独自のアナログハイビジョン放送方式(MUSE方式:Multiple Sub-Nyquist Sampling Encoding)がNHK主導により開発された。 その受信機用MUSE LSIは、1989年に第一世代として
専用LSI 25品種がNHKと国内家電・半導体メーカー数社で分担開発された。その後1992年~1994年頃に第二世代LSIが、国内家電・半導体メーカーの複数グループでそれぞれ開発され、1995年以降には1チップ
に集積されたものが登場した。
↑TOPへ 1990年代 システムLSI(SoC)の時代 DRAMでは大容量化が進んだが、ビジネスとしては韓国勢が台頭し日本勢は劣勢となっていった。一方新しくフラッシュメモリが登場し市場が広がり始めた。マイコンではIntelやMotorolaの セカンドソースを追求する路線からオリジナル路線への転換が進み、32ビットオリジナルマイコンが登場した。チップに集積される素子数の増大により、システム機能のより多くの部分をチップ上に 集積することが可能になり、システムLSI(SoC:(System on a Chip))が実用化される時代を迎えた。 1990年代後半には、ロジック製品においてファブレス(設計)とファンドリ(製造)の分離が始まった。LSIチップに搭載集積されるシステムが大規模化して設計力が重要となるにつれて、 設計技術やEDAツールの面で先行する米国との差が広がっていった。
1990年代になってもDRAMの大容量化は衰えることなく、4M、16Mの本格量産に続き、64M、128M、256M、512Mを経て、1Gビットの開発が行われた。また転送レートの高速化が進み、ファストページモードや
EDO(Extended Data Out)に代わり、シンクロナス型が登場、それが発展してDDR(Double Data Rate)となった。ビジネス面では、韓国メーカが台頭して日本メーカのポジションは低下して行った。
フラッシュメモリは大きくNOR型とNAND型に分かれて発展した。1990年代には、1Mビットから始まり256Mビットまでが開発された。そのうち大容量化の先陣を切ったのはNAND型フラッシュである。
また、1セルに2ビットを書き込む多値技術が登場し、NORフラッシュでは1995年(Intel)、1996年(NEC:64M)、NANDフラッシュでは1995年(東芝)、1996年(Samsung:128M)にそれぞれ学会発表された。
ASICは搭載システム規模が拡大してCPUコアとバスを内蔵するようになった。さらに、EDAの進歩により基本単位となる機能IP(Intellectual Property)を組み合わせてLSIシステムを構築するようになった。
このようなLSIをSoC(Silicon-On-a-Chip)と呼ぶ。SoCでは、使用プロセスに対応したライブラリや機能IPの準備など、個別のチップ設計の前の基盤設計の重要性が増した。
メインフレーム用超高速デバイスとしては長い間バイポーラ技術であるECLが使われていたが、半導体技術の進歩に対応して、1995年には先端CMOS技術を用いたハイエンド市場向けCMOSメインフレームが投入された。
当初見劣りしていたCMOS機の性能も3~4年間の技術改良によりバイポーラ機を上回るようになり、2000年以降はCMOSインフレームの時代となった。
マルチメディア時代を迎え32ビットマイコンの開発が開始された。32ビットマイコンでは独自アーキテクチャマイコン路線が強化された。1992年、日立からRISC技術を採用した32ビットの独自アーキテクチャの
SHマイコンが製品発表された。
1993年、日立はフラッシュメモリ内蔵の16ビットマイコン(H8-538F)を製品化し、産業・OA市場向けに販売を開始した。従来のマスクROMマイコンあるいはEPROMマイコン(ZTATマイコン)に比べて、
フィールドにおける書き換えも可能となったため、ユーザーにとって多大のメリットとなった。そのためフラッシュマイコンの市場は急速に拡大し、現在ではマイコンの主流技術となっている。
デジタルサーボLSIの開発が盛んになり、1992年にはパナソニック(旧松下電子工業)がCDプレーヤの光学サーボやD/Aコンバータ、信号処理回路をワンチップ化したLSIを開発した。
また、1994年には東芝がデジタルサーボチップセットCD-X、EX シリーズを外販開始した。デジタルサーボの登場によりサーボ特性をデジタルの係数で自由に可変できるようになり、
CDROMの倍速化対応が容易となり、最後には52倍速まで登場した。
1997年、NECは、小さい回路規模を実現する独自の動き検出回路と最適アルゴリズムと、低ビットレートでの画像の高画質符号化を実現するためのアルゴリズム開発により、
世界で初めてのワンチップのMPEG2 (Moving Picture Experts Group 2)エンコーダLSI開発に成功した。1999年以降発売され普及していく民生用のDVDレコーダに搭載された。
1970年代に時計と電卓で始まった液晶表示は1990年代になるとノートPCやモニタディスプレイに応用され、90年代後半にはPC用TFT液晶が増加し、90年代末には携帯電話の液晶が拡大した。
それに伴ってLCDドライバが大きく発展した。LCDドライバの90年代の発展には、TCP(Tape Carrier Package)実装方法と高耐圧プロセス微細化、カラー対応が貢献している。
↑TOPへ 2000年代 LSIがインフラとなった時代 LSIはすべての電子機器に搭載されるようになり、LSIが電子機器の機能を実現する時代となった。半導体は電子機器にとってなくてはならないインフラとなり、 ソフトとハードが一体化したプラットフォーム型の開発が広がった。 電子機器ごとに機能の多様化が進み、ひとつひとつの技術の開発のみならず、どのようなLSIを作るかという製品企画力やマーケティングの重要性が増大していった。
微細化の進展と多値技術によりNANDフラッシュメモリの大容量化は着実に進み、1Gビットの時代に遂にDRAMの容量を追い越し、2010年には64Gビットの製品まで量産されるようになった。
大容量化に伴い、デジタルカメラ、ポータブルプレーヤ、携帯電話、USBメモリなど新しい需要が拡大し、フラッシュメモリは全盛時代を迎えた。
2000年以降、携帯電話やデジタルTV、カーナビなどのシステム規模が増大し、SoCは1000万ゲートから数1,000万ゲートという巨大なものとなった。
SoCというハードウェアだけでなくソフトウェアも巨大化したため、このようなシステムを如何に効率的に開発するかということが大きな課題となった。
その解決策としてプラットフォーム型の開発手法が発展した。
新しいメモリのひとつとして、メモリセルに磁性体を用いた磁気抵抗メモリ(MRAM: Magnetoresistive RAM)や、カルコゲナイトを用いた相変化メモリ
(PCRAM: Phase Change RAM)、遷移金属酸化膜の抵抗変化を利用した抵抗変化メモリ(ReRAM: Resistance RAM)など、種々の不揮発性メモリが提案され、
開発が進んだ。
微細化が進んで製造の難度が上がったため、その対策として設計と製造の連携技術が発展した。ひとつは歩留向上のノウハウをチップ設計に
フィードバックしてルール化するDFM(Design for Manufacturability)技術であり、もうひとつはテスティングを容易にするバウンダリ
スキャン技術やBIST技術のDFT(Design for Testability)である。
2000年に入ると、従来のシリコン上の平面型MOSトランジスタ構造では微細化の限界が早晩来るとして、Si膜を極端に薄く形成したUTB
(Ultra Thin Body) SOI素子、FINFET、マルチゲート・トランジスタなど種々の新構造素子の研究が盛んになった。また、カーボン
ナノチューブ、グラフェンなど、全く新しい材料による素子動作の可能性も追求されるようになった。
DRAM/SRAM/フラッシュ以外の新しいメモリであるFeRAM(Ferroelectric RAM)は、強誘電体の基礎研究・開発に長い時間がかかった。
ロームや松下電子、富士通からFeRAMメモリ(FRAM)が発売されたあと、2001年富士通からFeRAM混載ICカード用LSIが発売された。
続いて松下電子(現パナソニック)からも2003年にFeRAM混載ICカード用LSIが発売された。
東芝は、画像認識プロセサのVisconti™第一世代T5BG3XBGを開発した。この製品はRISC(Reduced
Instruction Set Computer)とVLIW(Very Long Instruction Word)コアで構成されるMPE
(Media Processing Engine)3コアと画像処理アクセラレータを搭載したマルチコア構成のプロセサで、
先進運転者支援システム(ADAS)を想定して開発されたものである。
東芝、IBM、ソニーグループは、Cell Broadband Engine (Cell/B.E.) を共同開発した。Cell/B.E.は、1個のPowerPCアーキテクチャをベースにした64ビット汎用コアと
8個の128ビットマルチメディア処理用演算コアを備えた高度な並列演算機能を有 するマルチコアプロセッサだった。Cell/B.E.はソニーのゲーム機プレイステーション3
に搭載され、のちに東芝のデジタルTV(<CellCELLレグザ>)にも採用された。また、 IBMのスーパーコンピュータRoadrunnerにも搭載された。
プロセッサの高性能化は、その周波数を上げることによって実現されてきた。 しかし、
チップ消費電力の上昇によってこの手法は限界に達した。新しい解決策として登場したのが、1チップに複数のプロセッサコアを集積した、
「マルチコア方式」である。これは複数のコアを並列動作させることにより、高性能化と低消費電力化との両立を図るものである。
IBMのPOWER4に続いてIntelのPC用のPentiumプロセッサ、エクストリーム・エディション 840やCore Duoが開発されたが、日本メーカでは
ルネサステクノロジがデュアルコアのSH2A、SH4Aを開発し、NECエレクトロニクスがV850E2Mを開発した。
↑TOPへ 【最終変更バージョン】 2017/12/12 |