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業界動向 |
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1940年代後半〜1950年代
1947年12月、AT&Tベル研究所(BTL; Bell Telephone Laboratories)において点接触型トランジスタが発明され、1948年1月には接合型トランジスタが発明された。1951年からBTLはトランジスタの特許と技術を世界に公開し、半導体産業が急速に発展拡大した。日本企業各社もトランジスタ事業に参入し、1960年には世界一のトランジスタ生産国となった。
1953年-中頃:日本メーカ、ゲルマニウムトランジスタの生産開始
ソニーは米国Western Electric社より特許取得、折からのラジオブーム(真空管)の中、1955年8月にはこれを使って日本初のトランジスタラジオを発売した。他の日本メーカも競って参入、
海外ではトランジスタラジオなら日本というイメージが世界で定着した。
1956年2月:米国西海岸に半導体研究所が設立、シリコンバレーのスタート
マウンテンビューにWilliam ShockleyによりShockley半導体研究所が設立され、その後、幾多の半導体、半導体関連企業が同地に誕生、ショックレー研究所の跡地には「シリコンバレー生誕の地」の記念碑が建てられている。
1958年:米国でICの開発、発明
Jack Kilby(TI)はゲルマの固体回路(Solid State Circuit)でMonolithic IC特許取得
1959年:日本、ゲルマニウムトランジスタの生産で世界一
トランジスタラジオが急成長する中、日本メーカは独自のプロセスと装置で量産化、1959年には生産数8600万個と米国を抜いて世界一の生産国となった。
1959年:米国でシリコントランジスタの商用化に成果
1956年以降の数年、米国は軍需、宇宙開発、コンピュータ用として熱、周波数特性に優れたシリコントランジスタの開発を推進した。
↑TOPへ 1960年代
米国メーカでは製品品質責任は一定期限で十分という経営姿勢であったが、日本メーカは無限の品質責任とそれを支える品質管理こそ事業の要だとした。
1960年初頭:日本は世界最大のトランジスタ生産国
シリコントランジスタ技術を米国より導入した日本メーカは量産技術と生産拠点の強化拡大で世界最大のトランジスタ生産国となった。
1965年:「ムーアの法則」がシリコンバレーから発表 Gordon Moore(Fairchild)が、ICの進化を指数関数的に捕えた経験則からくる表現方法を発表。ICの素子数は1年ごとに2倍になるとした。
1965年以降:躍進する日本メーカは米国よりIC技術を導入する一方、独自で開発、量産を積極推進
首都圏での労働力不足や固定費削減が問題視され始めた対策もあり、地方への拠点拡大を進めた。東芝大分、三菱熊本、NEC山形等で製品はアナログIC、バイポーラIC、そして60年代後半CMOS IC が主役となってきた。
1968年:政府の産業育成策で超高性能電子計算機研究組合の設立
メインフレームの開発がNEC、日立、富士通、参加のもとスタートした日本のコンピュータ市場は1965年から1970年の5年間で500億円から3,300億円と大きく成長、上位はIBM中心の米系が占めていため国内メーカの指導強化を狙った。
1968年:Intel設立
Robert Noyce、Gordon E. MooreはFairchild社を退社、Intel社を設立。当時のIntelはメモリが製品開発の主流であり、MPU/CPUは1971年日本のビジコン社との4ビットMPU i4004の開発からであった。
1969年:シャープが電卓QT-8D発売
さらに1973年にはワンチップCMOS LSI搭載のEL805を発表。LSIは最初米国Rockwellから調達したがその後、日本製に切り替えた。
1969年: セイコーは世界初の電子式腕時計アストロンを発表 最初はIntersil社との共同開発のCMOS IC であったが、その後One chip CMOS LSIが国内半導体メーカ及び自社でも量産されると、これを採用した電子時計が発売され、
他社の参入もあって7年後の1976年には日本の電子時計生産は時計王国スイスを上回るものとなった。
1969年:Intelは世界で初の半導体メモリーSRAM i3101を発表、半導体メモリがコンピュータのコアメモリを置き換え始めた
当時のIntelはメモリを事業の軸にしており、1970年世界初のDRAM1103を発表。1971年には世界初のEPROM i1702、i2716を発表している。
1969年以降:電電公社は通信機応用LSIの開発を積極推進
1960年代、1970年代での電電公社は通信分野での圧倒的な顧客であった。ICの共同開発も電子交換機から端末用まで多くの国内ICメーカと数多く実施されており、その中で厳しい信頼性試験、安定したプロセスでの高品質等を強く要求、半導体メーカ成長に貢献した。
↑TOPへ 1970年代
戦後の復興から日本の経済成長は目覚ましく、一人当たりGDPでは$2,000(1950年)、 $4,000(1960年)、$10,000(1970年)に達した。しかし、他国からの反応は、驚きと非難が入り混じった複雑なものだった。
1970年代前半:日本で自動車のIC化が米国に先駆け進行
最初はアナログICで車内エンタメ用、次いでワイパー、電子ロック、ダッシュボード等で4ビットマイコンと他のデジタルIC、最後に8ビット以上のマイコンでのエンジン制御と進んだ。
1970年:世界の半導体市場は8700億円の規模
供給メーカでは1位はTI社、2位がMotorola社、3位がFairchild社で、日本メーカはいない。市場全体では日本メーカの得意とする民生比率は依然低かった。米国のシェア48%、日本シェア25%、欧州 26%、他1%。
1971-中頃年:日、米でCPUの開発が進展
Intel社は電子計算機用で日本のビジコン社と共同で4ビットMPU i4004を開発。さらに1974年には8ビットNMOS MPU i8080を出荷。Zilog社 Z80、Motorola社 M6800も登場し、MPUの基本機能が整ってきた。
日本メーカも70年代の中頃よりMPU開発が進展。家電用では4ビットを主流として圧倒的なシェアを取り始めた。
1972年以降:電卓、時計用ICの成長顕著
日本半導体メーカはCMOS LSIを大生産しており、1974年になると各社の生産規模は1〜2百万個/月に到達した。また、ローパワーCMOS LSIは多くの民生用機器の進展も後押しするとともに、それ自身も世界No.1の地位を不動のものとした。
1974年頃:オイルショックによる不況により半導体は初めて市場規模が後退
世界の半導体市場は初期の1957年で1億ドル、1964年で10億ドル、1979年で100億ドルと22年で100倍となったが、1975年で二桁のマイナス成長となった。シリコンサイクルの初めての下降線であった。
1974年:日本はICの輸入完全自由化
1970年初頭、日本の電気メーカはデジタルICで米国半導体メーカより積極的な技術導入、提携、そして製品輸入を進めていたが、1970年代中ごろより日本の半導体への切り替えが始まり米国輸入品が激減した。
政府は米国の圧力を受け、1974年ICの輸入完全自由化に踏み切った。
1975年: ベータ方式VTR発売(ソニー)
1976年日本ビクターはVHS VTR発売。標準化をめぐっての戦いが日本メーカ同士で始まった。A/V用アナログICの重要な応用分野であった。
1975年:超LSI技術研究組合発足
5年内に最先端製造プロセスの開発、微細化露光装置の開発、1μmプロセス、メモリで1M DRAMの試作を達成目標とし、1100億円の投資で工業技術院電子技術総合研究所のもと、富士通、日立、NEC、三菱、東芝の各社が参加してスタートした。
1970年中頃以降:日本半導体メーカは生産自動化を強力に推進
日本半導体メーカは1970年代で発展してきたICの試作技術を量産でも最高の品質で達成するため、強く生産自動化を進めた。後工程は特にボンダ工程の自動化を進めた。
もともと前工程は、設備、装置に大きく依存していたが、後工程では手作業が多く人手不足の顕在化、要求される作業の高度化、複雑化等により作業者ごとの品質のバラツキ、作業スピードの上昇等に限界が出ていた。
1977年:米国SIA(半導体工業会)が設立
日本の超LSIプロジェクトに関する報告書を米国政府に提出、さらに米国内のIC開発加速のため、SRC(Semiconductor Research Corporation ) の旗の下、産学連携の強化を提唱した。
1979年:Intel16ビットMPU i8088を発表、1982年にIBM PC 及びIBM互換機で採用された
このMPUはMicrosoft社のMS-DOSと共に、IBMオープンアーキテクチャPCのスタートとなった。多くのIBM互換機が生まれWintelのデファクト・スタンダードの始まりとなった。
1970年代後半:日本の半導体市場でコンピュータ、通信、産業機器用市場の成長本格化
ここは高位マイコン市場だが、米国のIntel、Zilog、Motorolaが世界的に主流となった。米国メーカのシェアが高く、日本メーカ各社は独自開発製品及び米国製品の代替え品で追いかけた。
↑TOPへ 1980年代 日本半導体産業の台頭と米国の苛立ち、日本民生市場の拡大継続、デジタル化第一波
1980年初頭:世界の半導体市場は約3.5兆円、日本メーカーはいまだ上位に至らず
1970年代は日本半導体の成長期、電卓、時計用CMOSLSI、民生用アナログIC、シリコントランジスタ等を軸足に64K、256KDRAM開発、ワンチップマイコン開発等が進んだ。1980年初頭、世界の半導体市場は約3.5兆円、しかし日本のシェアは1980年でも未だ25%程で米国の半分以下であった。
1980年代前半:日本の半導体はDRAMでシェア拡大。1981年には64KDRAMで世界NO1シェアを確保
米国のコンピュータ産業でのDRAM採用本格化に伴うDRAM需要の急速な拡大の中で、品質面でも高い評価を得た日本製DRAMは米国コンピューターメーカに本格的に採用された。
さらに設計・プロセス技術でも最先端に立った日本製DRAMは品質・納期・価格でも高評価を獲得、64KDRAMでは1981年に米系メーカを抜き、1987年に256KDRAMを中心に世界シェア80%を占めるに至った。
1983年:日本製半導体の急速なシェアの拡大に対し、米国半導体メーカの危機感増大
1970年代後半より米国での日本半導体に対する危機感が増大した。SIAの設立や「フォーチュン:日本の脅威」、『ビジネス・ウイーク誌』等の日本半導体脅威論が起こり、さらに、
DRAMでの米系メーカの事業撤退など、 米国保護主義の台頭とあいまって米系メーカの危機感は拡大した。
1984年:日本の半導体需要は前年比150%の高成長を記録。VTR、ゲーム等民生機器,16ビットPC向けDRAMの好調で日系メーカのシェア拡大
1980年代オーディオビジュアル系を中心に新たな民生機器がブームとなり、この分野で圧倒的な競争力を持った日本セットメーカの生産は急速に拡大し日本の半導体需要を支えた。
一方で16ビットPCのブームが到来しPC向けDRAMの需要拡大により日本メーカの世界半導体シェアは急速に躍進。
1985年:SIAおよび米系メーカによる日本製半導体のダンピング提訴が相次ぐ
1985年6月SIAが、米国通商法301条に基づき通商代表部(USTR)に日本製半導体製品をダンピング提訴、Micron社が日本の64KDRAMのダンピング提訴、またIntelもEPROMのダンピング提訴を行う。1986年にITCは日本製64KDRAMのダンピングを最終決定。
1985年8月:日米政府間での半導体問題協議が開始され、1986年9月「日米半導体協定締結
1985年:欧州でEUREKAが発足、1984年IMEC設立
日米との半導体技術格差を縮めるために、1984年にECは共同研究技術開発プログラムとしてEUREKAを発足当初58億ドルの資金を投入、さらに1984年にベルギー政府は海外を含む産学官の提携によるマイクロエレクトロニクス分野の
強化を行うためIMECを設立する等、半導体産業の強化が図られている。
1985年:Wintelの席捲始まる
Wintel(ウインテル)とはWindows とIntel とを合成した言葉でMicrosoft社のWindows シリーズOSとIntel のマイクロプロセッサを搭載したコンピュータ、あるいはMicrosoftとIntelとの関係をさす俗称である。1985年頃よりマイクロソフトのOSとインテルのCPUが搭載されたパソコンが圧倒的に大きなシェアを獲得し始めた。
1986年:世界半導体市場における日本半導体シェアは米国を抜き世界の第一供給者となった
日系メーカはDRAMを始めとするメモリ生産の拡大・好調な国内の民生用需要を背景にシェアを拡大。半導体メーカ別供給でもトップ3は1986年NEC、東芝、日立となり、さらにトップ10のうち6社が日系メーカが占めた。
1987年:日米半導体協定不履行を理由に米国政府による通商法301条に基づく報復関税措置
これにより日米半導体摩擦は第2ラウンドに入る。 アメリカ政府は、 1987年3月外国製半導体の日本市場への参入が不十分であり、 しかも日本製品の第3国市場でのダンピング販売が継続していることなどを理由に報復措置実施を発表した、
これに対して、日本政はアメリカ製半導体の輸入拡大、 日本製品の第三国向け価格の引上げの対応を行うことで対応、また折からの 半導体市況の好転および、 1987年11月に米国は第三国のダンピングで改善があったとして一部報復措置を解除した。
1987年:米国SEMATEC(半導体共同開発機構)設立
1980 年代末に半導体シェアが日本に追い抜かれたことに危機感を持った米国では、米国半導体工業会、SEMATECH 、SRCなどの工業会や業界横断的組織を活用し日本に対抗するための戦略的対応を次々と打ち出して
きた。その後1993年に米国半導体シェアは日本のシェアを逆転する米国半導体の復権につながった。
↑TOPへ 1990年代 日本半導体業界の苦悩、デジタル化第2波
1993年Intel・ペンティアムシリーズ発売、同時にMicrosoftがWindows3.1をリリース、PCにおける画像処理機能の飛躍的拡大でPCの需要はさらに加速化されると共に、プリンター等周辺機器の需要も喚起した。
このためMPU、DRAMに加え、周辺機器用半導体の需要増につながった。また1995年 Windows95がリリースされ折からの米国金融関係会社を中心とするOA化ブームもこれに拍車をかけた。
1993年:世界半導体シェア、日本が再び米国に抜かれる。アジアメーカの躍進
米国が世界の半導体シェア43%となりトップの座を再度確保、日本は40%で第2位。メーカ別ではMPU を中心にIntelが大躍進し世界のトップメーカとなり以下NEC、東芝、Motorola、日立の順位。
一方この時期、韓国・台湾の半導体メーカも供給力を拡大し世界の半導体供給メーカとして徐々に台頭し始め1994年には世界の10%のシェアとなり、欧州と肩を並べるまでになった。
一方日本は米国の好調、アジアの躍進もあり、日系メーカのシェアは1990年終代末には28%にまで激減。
1994年:半導体中期ビジョン委員会報告(1993年〜1994年)
1993年4月、日本電子機械工業会(EIAJ: Electronic Industries Association of Japan)の中に、1 年間の時限で「半導体中期ビジョン委員会」が設立された。1993 年4 月頃は、日本の産業全体が円高不況の危機的な状況にあり、
半導体産業においても産業の空洞化、雇用不安などが現実のものとなりつつあった。そこで、「半導体中期ビジョン委員会」としては日本の半導体業の取り組の中から、後に「半導体産業研究」と呼ばれる業界常設
シンクタンクの設立を提案することとなる。
1994年:半導体産業研究所(SIRIJ)設立
「半導体中期ビジョン委員会」からの提案を受けた形で、1994 年4 月に任意団体として常設のシンクタンク「半導体産業研究所」が半導体メーカ10 社により設立された。
「半導体産業研究所」が最初に出した検討結果として、共同活動プロジェクトを設立し、各課題を克服することが提案され、この結果に基づき、各社の設計力(製品開発力)の強化、
(株)Selete、(株)STARC等の具体的活動に繋がり今日に至っている。
1996年、1997年:半導体不況(DRAM不況)
Windows95の導入で始まったOA機器・PCブームの反動でPC市場は急速な調整局面に入り、特にDRAMの需給逆転から大幅な供給過剰となり、多くの半導体メーカが生産調整に陥り業績悪化につながった。
このDRAM不況は、その後日系メーカ各社(富士通/1999年撤退、日立とNEC/1999年エルピーダメモリ社設立、東芝/2001年撤退など)のDRAM撤退の契機ともなった。
1996年:日米半導体協定終結交渉
1996年7月バンクーバー合意:従来の日米政府間協定に代わり、業界間でダンピング防止の枠組みを定め、加盟メーカの自主参加を求めることで合意EIAJとSIA「半導体の国際協力に関する合意」に調印。
1997年:第一回WSC開催
バンクーバー合意に基づく日米半導体業界の提唱を受け、当初EIAJ、SIA,EECA、KSIAが参加し第一回WSCをハワイで開催、その後TSIA(台湾)、CSIA(中国)も参加し世界5極がメンバーとなり今日に至る。
WSCは半導体業界間で市場における問題点の解決、WTOの趣旨に基づく健全な業界のあり方を検討し、その結果を提案書としてまとめ、各国所轄政府関係者で構成されるGAMSに提言し政府間の協議による
制度政策面の改善につなげることを目的とする。
1997年:アジア通貨危機
タイ、マレーシア、インドネシア、韓国の経済的影響は深刻であり、半導体需要も減少した。特にDRAMに偏重した積極的な投資と価格競争を軸に伸びてきた韓国半導体メーカの業績面での影響は危機的であり、
一部は政府主導の下で大胆な構造転換が図られることに繋がった。
1998年:DRAMシェアで韓国メーカが日本メーカを逆転
DRAM市場では日系、米系メーカが苦戦する一方、韓国メーカはDRAMへの集中的な開発および設備投資によりDRAMの主要供給メーカとなり、1998年には日系メーカを抜いた。
1998年:半導体シニア協会設立 ↑TOPへ 2000年代
上位3社はIntel、東芝、TIでSamsungは4位であったが2002年には不況のあおりでTI、東芝が脱落、三星は2位に躍進。以降Samsungは2007年を除き2位を2000年代で保持した。
2000年初頭:主に製造技術にかかわる官民一体のプロジェクトがスタート
合計約1,200 億円での取り組みとなった。半導体あすかプロジェクト(2000年)、Miraiプロジェクト(2001年)、HALCA プロジェクト(2001年)ASPLA(2002年)、EUVA(2002年)、DINN(2001年)、 CASMAT(2003年)。
2000年初頭:通信半導体が成長、専業のFabless メーカが一段と台頭
通信は固定でFTTH、xDSL、無線でWiFi、WiMax、3GGSM等ブロードバンド通信技術が進展、米国 Qualcomm, Broadcom等は製造をFoundry makerのTSMC、UMCに委託、水平分業の協調体制が効をそうし、日本のIDMを圧倒した。
2000年代前半:民生、EDP、通信機器自体の競争は一段と激しくなり、半導体の市場構造も大きく変化
BRICSの台頭、QTATとローコスト志向で半導体の製品構成は変化、汎用品、低価格ASSPの上昇、ASICの下降となった。またアジアのEMS、ODMが直接半導体購入することを任され、アジア市場の拡大と低価格化が加速した。
2002年1月:東芝DRAM事業撤退NANDに集中
1980年代後半、日本メーカはDRAM市場で世界1であったが1990年前半から韓国メーカの追撃を受け1994年トップの座をSamsungに奪われ、以降苦難の道が続いていた。
2002年:NEC エレクトロニクスが分社化、2003年日立と三菱のSOC合弁会社ルネサステクノロジが設立、日本メーカの分社化、合併等の構造改革が本格化
2010年4月、NECとルネサステクノロジが合併し「ルネサスエレクトロニクス」となった。
2003年:地上波デジタル放送開始
液晶テレビの市場が伸長、CRTは終焉を迎えLCD TVは年間2億〜2.5億台の市場へ向かい始めた。
2005年:世界半導体市場は25.1兆円に回復
ベスト3はIntel、Samsung、TIで、東芝は4位。微細化は90nmに進展、TIはファブライトと上流に軸足の製品戦略でDSP、 アナログ、 高周波、 パワー等を伸ばし復帰してきた。
2007年:携帯電話急成長、世界で35億台の普及
携帯電話は世界で35億台、50%強(日本75%)の普及率となった。 PCは35%(日本75%)、インターネット35%(日本70%、中国35%)、ブロードバンド18%(日本60%)。
2008年:TSMCは創業から21年で世界のファンダリー市場の50%シェア獲得
また世界半導体ランクでも2002年に10位、2007年には6位相当にランクされた水平分業時代は半導体産業の専業化を加速させた。2007年の売上でみると上述のTSMC のファンダリー(9000億円)、後工程ではASE(3600億円)、
ファブレス Qualcomm(6600億円)、IP設計ARM(600億円)、EDAベンダ Cadence(1900億円)とみんな、不況の中でも堅調であった。
2000年代後半:More than Mooreといわれる半導体技術、製品分野の広がりが本格化
メモリ、MPU、ASIC以外にASSP、FPGA、3D SIP/SOC、ANALOG IC、パワーデバイス、MEMS、センサー、照明LEDとMooreの法則に縛られない製品の多様化、発展が加速した。
2000年後半:半導体の微細化、集積化による設備、R/D投資額の巨大化
Intel、 Samsung、 TSMC、 東芝四日市のみ大型投資を実施している。他の半導体メーカは資本の制約、リスク分散の為、ファンダリーのTSMC等の活用や自らのファブレスへの移行,、プロセスの共同開発、アライアンス等を進めた。
2008年:日本の民生機器の主力の一つであるDVDはソニーのBlue Ray が世界のDefactoを獲得、またデジタルカメラも日本の世界シェアは依然80%と極めて高い
日本の機器メーカはStand alone的なデジタル民生機器では新製品を創出する力と高いブランド力を依然保持しているが量産化に入ると韓国等の追撃を受け、シェアが低下する傾向にある。
(デジタルカメラは別格)国内半導体需要の増加には中々つながらない難しさがある。
2009年:半導体市場は前年比―11%の21.5兆円、ベスト3はIntel、Samsung、 東芝で2008年と変化ない
微細化は45nm。またこの中でもファブレスメーカはシェアを伸ばし、Qualcommは8位から6位、Broadcomは14位から13位、台湾Mediatekは24位から15位に躍進している。Qualcommは創業25年で売上高6000億円、
CDMA無線技術で11Kもの米国特許を持つファブレスメーカのトップとなっている。
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