1970年代
日本メーカのDRAM参入と高集積化の進展

〜集積回路〜



【DRAM時代の幕開け】
DRAM時代の幕開けは1970年のIntelの1K DRAM 1103のデビューであるが、そののちTIが4KDRAM(1973年開発)で、Mostekが16KDRAMで市場を制覇し、今日に至るDRAM時代が始まった。TIはメモリセルを従来の3トランジスタ方式に替えて1トランジスタ方式にすることにより、チップサイズの大幅な削減を実現した。またMostekは4KDRAMでアドレスマルチ方式を採用し、22ピンパッケージから16ピンパッケージへと小型化を実現した。 この結果、DRAMの基本仕様となる1トランジスタセル、アドレスマルチ方式、16ピン300mil幅パッケージというデファクト標準が固まった。

この時期のDRAMは大型計算機が主な用途であったが、従来のコアメモリから半導体メモリへの転換の時期に当たり、大型電子計算機の進歩とともにDRAMの需要が大きく伸びていった。

日本の半導体メーカもDRAMに参入し、米国メーカに積極的に開発競争を挑んだ。NECは1971年にNMOSの1KビットDRAM μPD403、1972年にμPD404を開発した。これらの製品では、Intelの1103がPMOSだったのに対して、高速性を追及してNMOS方式が採用された。

多くの日本メーカが4KDRAMの開発・製品化に着手したが、メモリセル方式やアドレスマルチ方式などの仕様面で米国メーカに大きく後れを取り後塵を拝した。4Kビット、16Kビットの時代は米国の後追いを抜け出せなかった。

そのような状況下で1975年に電電公社の超LSI開発プロジェクトが発足、1976年に超エル・エス・アイ技術研究組合が設立され、微細加工技術開発の先陣としてDRAMの開発が加速されていく。

そのころから、記憶信号量への雑音を最小にするDRAMメモリ2交点ビットセル方式の発明(1974年、伊藤清男・日立製作所)など優れた技術が出現し、5V単一電源化でも日本の技術が徐々に米国に先行するようになった。64KDRAMでは、日本メーカが積極的な開発を行い、製品化において米国に先行しトップシェアを獲得した。当時、動作時に原因不明のランダム不良となるソフトエラー問題(SER)が発生したが、原因がα線による記憶データの破壊であることを明らかになり、メモリセル構造の改善と蓄積容量の増大で対策された。

日本メーカのDRAMは日米の電子計算機メーカから信頼性に関する高い評価を獲得し、着実にその実力を蓄えていった。

(提供 NEC)


【参考文献】
1) 日本電気株式会社百年史  日本電気 2000年12月


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【最終変更バージョン】
rev.001 2015/6/16